askaryotug’s blog

~ ASKAへ ~

おかえりなさい。

ASKA、おかえりなさい。
と、ASKAの新譜を聴いたら、
きっとそう思う…と思っていた。

 

本当にそうなのか?
アルバムを手にして一週間が経ち、
今更に自身に問うている。

 

アルバムを購入して、翌々日―。
私は、シュリンクを切った。

 

アルバムを一辺倒に耳にして、
ASKAだ!」だと、強く感じた自分がいた。
目を見開くように、心もまたそうだった。

 

瞬間、私の中に前述の言葉…
「おかえりなさい」が、突如消えた。

 


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2014年、彼は違法薬物事件を起こした。
当然のように、コンプライアンス問題もあり、
社会的な制限がかかった。

 

活動、制作、販売など、全てが彼を遠ざけた。
もうASKAの楽曲を聴くことはできないのではないか?
そんな風潮さえ論じられるようにもなった。

 

しかし、このアルバムを聴く限り、
その間も彼は楽曲制作を止めていたとは、到底思えない。

 


私は思う。
コンプライアンスの基に、社会がASKAを置き去りにしたのだと。
そして、
ファンである私の心の中にも、罪を犯した者になってしまった彼に対し、
以前とは違う距離感が生まれていたのではないかと。

 

逮捕されてからも、強制入院をさせられていた期間も、
私は、彼の楽曲をこよなく愛し、聴きつづけてきた。
ファンであることを問われれば、まっすぐな心で肯定もした。
何も変わらないつもりでいた自分だったし、実際に何も変わっていなかった。


しかし・・・・・・。

どこかで行われた印象操作。
AKSAは、復帰が難しいのではないか・・・。

 


♪Too many people の13曲は、実に何も変わっていなかった。
常に、ASKAはここにいて、何も変わらない感性で楽曲を作り、歌い、
我々にメッセージを送ってくれていたのだ。
すぐそばにいたのだと、改めて感じたものばかりだった。

 

 

罪を犯した者へ、社会の対応は冷たい。
また、そうでなければ、保たれないものもある。
しかし、我々は、その判断を慎重に、
かつ大胆に理解をして手を差し伸べなれけばならない。

 

果たしてASKAは―。

 


ASKAは、社会的復帰を行うに、音楽制作はリハビリだと言った。
それを、マスコミは「時期尚早」と書き立てた。

 

実は、私も昨夏はそのように思っていた一人だ。
少しばかりの言い訳をしてしまうと、
当時、ASKAの身体の状況が見えていないこともあり、
もし、治療が必須であるのであれば、
アルバム制作よりも治療を優先すべきではないか。
という考えのことだった。
決して、罪を犯してしまったことや、
執行猶予中の身の上から思っていたことではない。

 

実に、彼の罪と音楽は一緒くたにはなり得ないし、
決してしてはならないこと。

 

 

話を元に戻そう。

ASKAの13曲の子供たちは、実に心地よい音と言霊で、
この世に生まれてきた。

 

なぜに、
ASKAが音楽を手放してしまう可能性があるのでは?」
そんな風に思ってしまった瞬間があったのだろうか。
「もう、楽曲は作れないのでは?」
なぜ、なぜ、なぜ…なのだ。

 

いつしか、私は見えない何かに、操作されていたのかもしれない。

 

ASKAは、まだ執行猶予中ではあるが、音楽の世界に帰ってきてくれたと大勢の人が語った。
果たしてそうなのか?
それは違う。
彼は、音楽の世界にいたのだ。
ずっとずっと。

 

彼が帰って来たとするならば、それは社会。
音楽の世界ではない。
そこを履き違えてはならないと、アルバムを聴いて強く思った。

 

もし、彼が音楽から離れていたと考えていたならば、
それは、前述にも書いたように、自分自身かもしれない。
自分の中で、どこかASKAと音楽を引き離して考え、
自分が知らずのうちに、ASKAのホームから出ていたのだろうと。

 

 

だから、私はASKAに言おう。
おかえりなさい…ではなく。

 

ASKA、ただいま」と。

 

 

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2017.03.03(fri) 追記

こんな事を書きながら、

まだ…

「おかえりなさい」なのか、

「ただいま」なのか…

どちらが相応しいのかが分かっていない。

 

 

私的には、

ASKAが、あと一年半後の時期を迎えた時に、、、

大きな声で、

「おかえりなさい!」と。

 

 

 

 

 

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